2012年09月06日

ちりめん物語~丹後でうまれた奇跡~vol.8

第8話 倭文(しどり)神社

倭文神社と呼ばれる神社は日本全国にあり、建葉槌命(たけはつちのみこと)、または天羽槌雄神(あまのはつちおのかみ)とも呼ばれる織物の神様を祀る神社で、与謝野町三河内地区にも存在します。三河内の曳山祭りは、丹後ちりめんが誕生した300年の歴史に関係があり、丹後ちりめんと共に発展してきました。それはそれはきらびやかで美しくいお祭りです。

倭文(しどり)神社の北東側に三つ葉グランドがあります。その中に「ちりめん創業記念碑」と書かれた大きな石碑がそびえ立っています。裏面には石碑設立の理由書きがあり、

 

「今、皆が丹後ちりめんの恩恵を受けることができるのは、江戸時代中頃、木綿屋六右衛門の力添えで、手米屋小右衛門と山本屋佐兵衛が苦労をして西陣でその技術を習得。享保7年(1722)に帰郷し、その技術を惜しみなく多くの者に伝授したからである。それに感謝の意を示す」

 

と書かれています。

この石碑は大正15年に建てられましたが、翌年の丹後震災で壊れて、2年後の昭和4年に新しく建てられたものです。大正時代の石碑は、地震の時にいくつかに割れてしまったらしく、その断片が今でも算所と三河内の両地区に残っています。こうして昔の人たちのおかげで、今の豊かな暮らしがあるのですよ。

 

 

謎の男「丹後地方は、この地域の気候・風土を活かし、幾つもの試練を乗り越え、まちのためにと行動した人たちがいたからこそ、今があるんじゃ。そして、まだまだたくさんの素晴らしいものがこの地域にはあるから、みんなで探したり、調べたりして、いっぱい自慢できるものを見つけてみてね。」

 

 

「おしまい。」

2012年09月05日

ちりめん物語~丹後でうまれた奇跡~vol.7

第7話 ちりめん街道

与謝野町加悦地区の旧街道沿いの町並みは、「ちりめん街道」と呼ばれ、平成17年12月に「機音響く丹後ちりめんのまち」として、日本中に98カ所ある「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。江戸から明治・大正・昭和初期にかけて丹後ちりめんがにぎわいを見せた場所です。ちりめんの流通を支えたのは、重さ60キロにもなるちりめんを、丹後から京都に山を越えて運び続けた「ちりめん飛脚」です。足に自信のある男たちが、毎日大江山を越えて京都にちりめんを運んでいました。

京都への道のりは、行きは5日、帰りは4日と決められていました。ちりめん飛脚は健康でまじめなひとで、信用がありました。京都からの帰り道は、ちりめんが売れた大金を持って帰るので必ず2人以上で帰りました。

 

飛脚B「おい、うまそうな店があるぞ。ちょっと寄っていかねえか。」

飛脚A「ダメだ。こんな大金を持って道草くうのはあぶねえ。さっさと帰るぞ。」

飛脚B「へい・・・。」

 

これは、いろんな誘惑に負けないように、また山賊にあっても襲われないようにという決まりだったのです。明治から大正には、街道にランプ屋・化粧品屋・牛肉屋・呉服屋・料理旅館・人力車屋・駄菓子屋・床屋・うどん製造店・帽子屋などが軒を連ねていきました。そのにぎわい振りに、但馬方面から遠足に来た子どもたちが「ここは日本か!」と驚いたそうです。この街道にある機屋さんやお店は、家の中にあるため、普段の生活と仕事が密着していました。現在もある下村家住宅の「ハタヤマド」は、秘密とされていた技術を見られないように外から見えにくく、でも明りがしっかりとれる工夫になっている窓です。このハタヤマドを持つ建物は、残念なことに丹後大震災で多くがつぶれてしまい、丹後で唯一、下村家住宅のみとなりました。

ちりめん街道の「10m道路」はゆったりとした道幅が特徴ですが、これは観光用に整備されたのではなく、当時のままが残されています。この道路整備にお金を出したのは、ちりめん産業でお金持ちになったひとたちでした。お金をまちのために使い、住民の生活や仕事をする場所を自分たちの手で整えたのです。さらには、「住民が鉄道を敷く」、それを実現させたひとたちがいました。値段の移り変わりが激しいちりめんは、早く丹後から京都へ運ぶ必要がありました。そんな中、鉄道を敷くことが決定され、住民は大変よろこびました。

 

しかし、不幸な出来事が起こりました。

 

大正12年9月1日 「関東大震災」です。被害は東京方面だけではなかったのです。保管されていた書類が無くなり、鉄道を断念せざるをえませんでした。しかし、住民たちは諦めませんでした。

 

住民A「くそー。鉄道が敷ければ商品をもっと早く運べるのによー。」

住民B「まだ諦めるな。経験のある人を探してもう一度設計しよう。」

住民A「そうだな。よし!もう一度がんばろう!」

 

経験のある技師に、設計や測量、距離などを出してもらい、建設に30万円あればできるとわかりました。当時のお金の30万円は、現在のお金で約1億8200万円です。その後、823名のひとたちがお金を出しあい、加悦鉄道株式会社を建て、地域社会の発展に一生懸命つくしました。ガス発電所、自動車、加悦鉄道、加悦町役場、これらもみんなが力を合わせて作りました。念願だった鉄道営業を開始して3ヵ月。またしても、不幸な出来事が起こりました。

 

丹後地区を大地震が襲ったのです。昭和2年3月7日午後6時28分、丹後大震災の発生です。夕食の時間だったこともあり火を使っている家が多く、またたく間に火災が発生し、大変大きな被害になりました。

 

避難住民たち「早く逃げろ~。子どもとお年寄りを守れ~。うちの子どもを知りませんか~。」

 

被害総額は、今のお金で約1億9000万円。念願だった鉄道開始も、大きな被害を受けました。

 

 

しかし、一人の人物が立ちあがりました。

 

 

加悦鉄道取締役に就任した11代尾藤庄蔵です。尾藤氏とは、どんな人物だったのでしょうか。江戸時代後期には、ちりめん問屋として活躍し、明治初期には北国と大阪を結ぶ北前船を所有しました。加悦鉄道株式会社では社長を務め、昭和3年からは2期加悦町長も務めました。丹後大震災が起こり、尾藤町長はその復興事業として役場の新築、道路建設といった、現在のまちの基礎をつくりました。懸命の復旧作業で、なんと1週間で再開し、ちりめん製品を運ぶためにつくられた鉄道は、この時救援物資の輸送に大活躍したのです。住民が一丸となってまちをつくり、奇跡ともいえることを実現したのは、ひとの絆、ひとの想いが強くあったからこそできたことなのです。

今は鉄道がなくなり、その線路は自転車道になっています。昔の線路の上を、みんなも歩いたり自転車で走ったりしてるんですよ。

 

 

謎の男「みんながいつも使っている自転車道は、実は線路だったんじゃな~。今日来ているお父さんお母さんたちは、加悦鉄道が走っていたころを知っているかもしれんの~。次は、織物の神様がこの地域にいるという噂を聞いたんじゃ。はてはて、どこだったかの~。」

 

最終回第8話に続く・・・・・

2012年09月04日

ちりめん物語~丹後でうまれた奇跡~vol.6

第6話 丹後で初めての織物工場

与謝郡野田川町岩屋村に丹後で初めてつくられた絹織物会社。ノコギリ型の三角屋根の工場がつらなっています。絹の糸は光をあてると光って見えます。この屋根は、直射日光をさえぎって、自然の光を取り入れる工夫がされています。それによって、手の影がでず、3,700本の糸がしっかり見えるようになっているのです。天井が高くなっているので、織機をたくさん動かしたときの音を分散させ、うるさくないようにしています。

昭和34年には昭和天皇がこの工場に来られ、当時ご婚約をされていた、皇太子様と美智子様の結納の白生地を2反注文されました。その白生地でつくられた着物が、結婚披露宴で日本中に紹介され、

 

おばちゃん「美智子様と同じ着物がほしい」

 

と、この工場に注文が殺到しました。

昭和40年代、高校卒業の役場の初任給が15,000円の頃に、白生地1反10,000円しました。それでも年間1,000万反の注文があり、織っても織っても追いつかない状況が続きました。

 

お客さんたち「1反ちょうだい。うちは2反くれ。私もちょうだい。」

問屋主人  「ありがとうございます。はい、1万円ね。こちらも1万円ね。」

 

ガチャっと織れば万儲かる。これが丹後の「ガチャマン」と呼ばれた一番儲かった時期です。それは昭和48年まで続き、丹後は日本一のシルクの生産地になったのです。この工場は、業界でも有名でしたが、平成元年に工場を閉めました。しかし、この地域の産業を支えた工場だったので、地元のひとたちから、「ちりめんのルーツともいえる丹後の顔だった工場を残してほしい」との声がありました。そこで、昭和初期の雰囲気をそのままに、ちりめん工場を再開したのです。

 

謎の男「なるほどの~。むか~しむかしからあるものを守っていくのは大変なんじゃな~。むかしと言えば、まち並みが歴史をたくさん持っているところがあるんじゃ。ちょっと遊びに行ってくるかの~。」

 

第7話に続く・・・・・

2012年09月03日

ちりめん物語~丹後でうまれた奇跡~vol.5

第5話 丹後織物工業組合

織りあがったちりめんは、いくつかの作業をへて製品になります。丹後で織ったちりめんの生地は、丹後織物工業組合に集められます。織りあがったちりめんはゴワゴワしていて、色も真っ白ではありません。セリシンというニカワ質のものや、のり、油などが付いているので、それらを取り除かなくてはなりません。そのために、石鹸液の熱湯の中で約4時間煮込んで取り除きます。この作業を「精練」といいます。その後、乾燥させ、幅を整え、厳しい検査員によって1反1反キズや汚れが無いか検査し、製品として認められた反物に「合格印」が押され出荷されます。

昭和10年には一年の生産量が533万反、織機も14,558台になりました。丹後織物工業組合加工場では、次々に新しい機械が入り、昭和48年には生産量が996万反になり、西陣織りの帯の生産も増えて、丹後はちりめんと帯の日本一の生産地になったのです。

謎の男「ちりめんというのは、ただ織るだけじゃなく、いくつもの作業を経て製品になるんじゃな~。この近くにも古~い織物工場があるらしいから、次のお話を聞いてみよう。」

 

第6話に続く・・・・・

2012年09月01日

ちりめん物語~丹後でうまれた奇跡~vol.4

第4話 発展

300年前、苦労して持ち帰った技法が伝わり、丹後ちりめんが定着していったころ、京都西陣で大火災が起こりました。この火災で7,000台余りの織機が灰となってしまったのです。たちまち絹織物は品不足となり、丹後に注文が殺到し、丹後はちりめんの産地となったのです。明治時代に入ると、「国のためになる産業をおこせ」という国からの命令が発令されました。それに対応し、今の綾部市に「郡是(グンゼ)製絲株式会社」がつくられました。

郡是社員「今日から蚕のえさになる桑の葉を作って、絹糸をたくさん作って下さい。」

農家  「へい、わかりました。」

郡是製絲株式会社は、農家さんに蚕さんのエサとなる桑の葉をつくるよう指示を出して生糸の生産を増やし、海外へ輸出をして、「日本の絹糸はとても良い糸だ」と高い評価をもらい、業績を拡大していきました。国内でも一年の生産量が40万反から150万反に、織機も1,400台から4,000台を超え、3倍の生産量に発展しました。さらに、与謝郡野田川町岩屋村に、丹後で初めての絹織物会社がつくられました。外国のお金を得るために、ヨーロッパの女性向けのブラウスやスカーフなどのシルクの生地を織りあげて国の為に力を注ぎました。大正から昭和には、ちりめんの生産がものすごく増えました。いわゆる、「丹後ちりめんの黄金時代」を築いたのです。

 

第5話に続く・・・・・

2012年08月30日

ちりめん物語~丹後でうまれた奇跡~vol.3

第3話 丹後ちりめん

では、丹後ちりめんはいつから始まったのでしょう。むかしむかしから絹織物が盛んだった丹後。古墳から絹織物が出てくるなど、むかしから織物が織られていたことがわかります。奈良時代、「あしぎぬ」を大和朝廷のみつぎものとしていたという記録があり、「あしぎぬ」というのは平織の素朴な織物でした。平安時代には、細かく繊細な織物「精好」が織られ、高級な絹織物として偉い人の衣服に使われていました。しかし、江戸時代まで織られていた「精好」という織物は、高級品なのでなかなか売れませんでした。お百姓さんも、農作物のできが悪く不作のときが続いていました。

 

「なんとかしなければ」

 

みんなが苦しい生活のなか、絹屋佐平冶という若者が立ちあがりました。絹屋佐平冶は、のちに丹後地域を救う救世主になったのです。この時代の産業の技術は、それぞれの産地で秘密にされていました。西陣のちりめん織りの技術も絶対秘密でした。絹屋佐平冶はなんとかその技術を得るために、京都西陣の機屋さんに住みこみで働きに行きました。

 

(絹屋佐平冶)「丹後から来ました絹屋佐平冶です。よろしくお願いします。」

 

西陣に来てから長い日が過ぎました。

 

(絹屋佐平冶)「どうすれば縮みのある織物ができるのだ。きっと糸のより方にちがいない。」

 

ちりめん織りの秘密の技法とは、「撚糸」です。丹後ちりめんは、経糸には撚りのかからない生糸、横糸には3,000回~4,000回の撚りをかけた糸で機を織ります。織られた生地には細かな凹凸ができ、それを「シボ」といいます。シボがあることで、しわになりにくく、しなやかで風合いがよく、染め上がりの色合いが豊かなものになるのです。これが丹後ちりめんの特徴なのです。

苦労の末、丹後に帰ってきた絹屋佐平冶は、この技法をみんなに教え、またたく間に広がっていきました。

さらに、京都と丹後を往来する中間問屋であった後野村の木綿屋六右衛門(もめんやろくえもん)が西陣の織屋に、100年以上門外不出となっていたちりめん技法の伝授を依頼しました。その後、加悦村の手米屋小右衛門(てごめやこえもん)と、三河内村の山本屋佐兵衛(やまもとやさへい)を京都西陣に送り、技術を習得させました。2人は丹後に戻り、加悦谷にちりめんを広めたとされています。

これがきっかけとなり、今の「丹後ちりめん」の基礎ができあがりました。この技法が伝わり、今も同じ技法でちりめんを織って300年が経ちました。丹後地域を救う大きな影響を与えたのです。

 

謎の男「絹屋佐平冶、手米屋小右衛門、木綿屋六右衛門、山本屋佐兵衛・・・。今まで300年、彼らのおかげで丹後ちりめんというブランドがあるんじゃな。皆も自分たちの地域のために行動できるひとに育ってほしいの。我輩も何かできることはないかの~。」

 

第4話に続く・・・・・

2012年08月29日

ちりめん物語~丹後でうまれた奇跡~vol.2

第2話 蚕(かいこ)さん

丹後ちりめんの原料は絹です。そもそも絹は、何からできているのでしょう。

絹は蚕さんがサナギになる時に吐く糸です。

良い絹を手に入れるには、蚕さんに良いまゆを作ってもらわなければいけません。蚕さんは桑の葉が大好きで、むしゃむしゃむしゃむしゃたくさん食べて成長します。成長した蚕さんは3日間糸を吐き続け、まゆを作っていきます。着物1着分の生地1反には、98kgの桑の葉を食べた蚕さん、数でいうと3,000頭必要なんですよ。蚕さんを飼って繭を作る家は、今ではほとんどなくなってしまいましたが、昔はたくさんの人が蚕を飼っていました。みんなのおじいちゃんやおばあちゃんも蚕を飼っていたんじゃないでしょうか。

伊根町でも、今では漁業や観光業が主な産業となっていますが、蚕を飼う仕事は筒川を支えた重要な産業だったのです。明治から昭和初期にかけ、伊根町筒川村の製糸工場にあった、蚕を育てるための石組み施設「氷室」がありました。

氷室とは冬に埋めた雪を夏まで貯蔵し、室内を冷温に保つものです。蚕は熱さにとても弱いのです。伊根町筒川村では明治33年、蚕を育てるため、繭から生糸を作る筒川製糸が切石を積んで、縦横8メートル、高さ3メートルの氷室を造りました。氷室内では冬場になると、青年団の若者らが雪を入れ、蚕の卵を保管し、地域住民らが1年に4回程度取り出して、農業の合間に蚕を育てる作業に取り組んでいたんですよ。

 

第3話へ続く・・・・・

2012年08月28日

ちりめん物語~丹後でうまれた奇跡~vol.1

第1話 丹後の特性

謎の男「あーはっはっは、実に面白い。なんてステキな地域なんじゃ。あっ、これはこれは皆さんこんにちは。我輩は世界を旅しているトラベラー男爵。トラちゃんと呼んでね。色々旅をしてきたんじゃが、この地域は面白い歴史や魅力がたくさんあるんじゃな。ちょうどよいところにきたんで、今日は皆と一緒にこの地域のことを知ろうと思っておる。それじゃあ行くぞ。」

 

ここはみんなが住んでいる丹後という地方です。

百姓A「なんでゃ~、また雨が降ってきた~や~。」

百姓B「おい、おみゃ~傘もってにゃ~んきゃ~。いっつも弁当だけはちゃ~んと持っとるのにな~。はははは。」

百姓A「うるせぁ~。飯食わんと力で~へんだろ~ぎゃ~。ひゃ~雨宿り雨宿り。」

丹後は一年を通してよく雨が降る地方なのです。秋から冬にかけて吹く季節風を「うらにし」といい、冬はたくさんの雪が降ります。丹後の冬は湿気を含んだ少し重たいぼたん雪が降り続き、そして雪が終わると雨に変わるのです。お弁当はしっかりもって出かけるのに、傘をもっておらず、ビショぬれになるひとが多くいました。それから丹後では「弁当忘れても傘忘れるな」と昔からいわれ、いつ雨が降ってもおかしくありません。

この雨のおかげで、山から流れる水はキレイで、おいしい食べ物が育ちます。みんなが食べているお米や野菜、お魚も、水がキレイだからおいしいんですよ。

百姓A「今日のにぎりめしも、うみゃ~な~。」

百姓B「も~らいっ。」

百姓A「あっ!こら!まて~や~!」

 

 

与謝野町岩屋地区には、野田川に流れる岩屋川の上流に、水がキレイでないと住めない生き物「ゲンジボタル」がいます。さらに上流には、特別天然記念物の「オオサンショウオ」がいます。生き物にとってもこの地域のキレイな水は、とっても必要なんです。

川の水は海に流れ、海の生き物にとっても、漁師さんにとってもキレイな水であることは大切なことなのです。ホタルが見れる地域は、水がキレイという証なんですよ。

お百姓さんはお米や野菜をつくったり、漁師さんは魚をとって生活しています。冬の季節は雪にとざされて外に出られないので、この湿気が多い気候を利用して、美しい丹後ちりめんを織って生活をしていました。

丹後ちりめんは主に絹糸を使った織物です。絹の糸は細くて、髪の毛の4分の1の細さしかないので、乾燥していると糸が切れて機が織れません。よく雨が降る湿気の多い丹後だから、ちりめんが織れるのです。

 

謎の男「なるほどなるほど。そうだったんじゃな。この雨のおかげでおいしいお米や野菜が食べれるんじゃな~。うんうん。うっ!はっ、はらが、腹が減ってきた~!ちょっとおにぎりを食べてくるからまたな。お母さん、おにぎり作って下さいな~。えっ、いやだ?そこをなんとかお願いしますよ~。」

 

宮津は天橋立で有名な京都府北部の城下町です。かつては北前船が寄る港として栄えたところでした。北前船とは、船の船長さんが、商品を売り買いして、主に日本海側を行き来して商売をしていました。

宮津で有名な歌「宮津節」の中にこんな歌詞があります。

♪ 丹後縮緬 加賀の絹 仙台平には南部縞 陸奥の米沢 江戸小倉 丹後の宮津でピンと出した ♪

これは全国各地の織物の名前で、宮津の名産には丹後ちりめんがありました。宮津も古くから丹後ちりめんの産地として栄え、西陣にも出荷していました。全国の織物におとらないものであったことがわかります。

 

第2話へ続く・・・・・

2012年06月20日

街道と茶屋と青年部

いらっしゃいませ! 本日のスウィーツは、地元産コシヒカリの米粉と卵を使ったシフォンケーキです。

1人の先人が産業のなかったこの地域に、あらたな産業をと思い、京都西陣からちりめん織りの製造技術を持ち帰ってから290年。この地域で製造されるちりめんは「丹後ちりめん」としてのブランドを確立し、昭和40年代まで、絹織物の一大産地として、京都をしのぐほどに栄えてきました。

 

その中にあって、与謝野町にある「ちりめん街道」と呼ばれるわずか500mの通りは、ちりめん商家や工場はもちろんのこと、銀行や郵便局、病院や旅館、酒蔵とそして役場などが立ち並ぶ、丹後ちりめんの物流拠点として発展し、往来する多くの人々で栄えていました。

現在は、今なお残るそれらの建物によって、日本に93ある重要伝統的建造物群保存地区のひとつとなり、当時の繁栄を今に伝えています。

 

しかし、こうして地域経済を支えてきた織物業も、和装需要の減少によって低迷が続いているため、与謝野町は昨年、新たに観光による活性化にも取り組むと発表し、その基軸にちりめん街道を据えました。そして、街道の観光客を現在の3000人から5万人にすると目標をかかげ、景観や環境整備、空家対策としての出店喚起などを取り組み項目に挙げています。私たち青年部も参加し、意見を述べたり、先輩から教わったりしながら、官民一体となったまちづくりに向かって会議を重ねています。

 

こうして、ちりめん街道の素晴らしさを知っていくうちに、「このちりめん街道を活かして自分たちでも何かをしたい!」と思うようになりました。

なぜなら、私たちは「活性化には10年、20年と時間がかかる。みんなが活性化に向かって一つにならなければ、この活動は続かんだろう?。出展喚起とは言うけど、採算ベースの交流人口になるまで、なかなか新規で商売なんて始められへんて!」と思っていたからです。

 

「じゃあ、ぼくたち青年部にできることってなんだろう?」

 

そんな思いをめぐらせながら、今必要なのは、お祭りのようなこれまでの一過性のイベントではなく、地域活性化のきっかけになるような持続可能な活動ではないかと考えました。そうして、いろいろ浮かんだアイデアの中から「ちりめん茶屋」を始めることにしたのです。

ちりめん茶屋とは、ちりめん街道沿いで戦後使われなくなっていた酒蔵をお借りし、一昨年10月に与謝野町商工会青年部がオープンした喫茶店です!

 

大家さんは観光ボランティアもされているような方で、活性化にも前向きです。それでも、当初はなかなか話が進みませんでした。そりゃそうですよ、いくら地元商工会の青年部と言っても、先代から大切に受け継いでこられた酒蔵を、改装して違うお店にしたいって言うんだし、まして他人が入るわけですから。

何度も何度も交渉し、最終的に、「酒蔵の雰囲気を活かした内装にすること」そして「3年は続ける」ということを条件に、ようやく許可をいただくことができました。

 

許可をいただいてから、今度はオープン予定日までが、また大変でした。使われていなかったこともあり、まずは部員全員で大掃除からのスタート。店舗への改装は、青年部の本領発揮で、本職の部員が指導しながら、すべてを部員だけで一気に進めることができました!

こうしてさまざまな苦労を乗り越えて生まれたちりめん茶屋は・・・

掃除の時に出てきた酒樽の蓋で作った看板を目印に、丹後ちりめんののれんをくぐって店内へ入ると、右手には小さな座敷。左手には部員が本業であつかう商品が並ぶ棚がにぎやかにお出迎えすると、「いらっしゃいませ。」カウンターから部員が客室へとご案内いたします。奥に広がる客室は、オレンジ色の明かりが酒蔵のままの壁や土間を照らし、流れるジャズの音色と相まってノスタルジックで落ち着いた空間を演出。それはまさに昭和モダン。テーブルにはもちろん丹後ちりめんのランチョンマットとコースター。

地元の食材を使った茶屋オリジナルのスウィーツと7種類の飲み物からお好きな飲み物を選んでいただけるセットがお勧めです。

そうそう、部員から9人を選抜して、衛生管理者の資格も取ってますからご安心を。

営業スタッフは部員によるボランティア当番性。そのため、営業日は毎週土日のみの朝10時から夕方6時まで。はじめは、「いらっしゃいませ」さえ、照れくさくてなかなか上手く言えないものでした。もちろん、コーヒーの入れ方だって。みんなで一生懸命練習して、いまではちょっとしたバリスタ気取りです。

 

オープンからもうすぐ2年。その間、休業したのは年末年始とお盆のみ。他の事業と重なるときも営業しなければ!という熱い思いで、営業を続けてきました。

その結果、常連客が徐々に増え、店頭で扱う部員の商品も観光のお土産にと売れてくるようになり、収支がとんとんになるまでになりました。

こうして売上が上がることは、この事業を継続する上で重要なことです。しかし、それよりも嬉しいのは、常連さんとちりめん街道の活性化について意見交換したり、当番に入った部員同士や遊びに寄った部員が、仕事のこと、青年部のことをじっくりと話し合ったりすることができる場所になっているということです。また、最近では、ご近所の奥様が、趣味の手芸を活かして、ご自宅でちりめんを使った小物の販売を始めらました。こうして、みんなができることから始めることが、活性化に向かってとても大切なことだと思うし、一歩進んだなと実感もできています。

 

このちりめん茶屋事業を通じて、伝えたい想いは二つ。ひとつは地域の方々へ「この活性化に本気で取り組む」姿勢。それを感じていただいて活性化への意識を地域と共に育んでいきたいと思っています。そしてもうひとつは部員へ「地域振興は決してボランティア活動なんかじゃない!」。茶屋が自分たちの事業だから気づきにくいけど、改装も営業も世間でいえば仕事です。遠回りでも、地域が発展すれば自分たちの仕事が生まれる。だから商工会で取り組むわけだし、ボランティアじゃなく仕事の一環として、未来の自分の仕事を生みだす活動だと思っています。

 

私たちにこう思わせてくれたのは、ちりめん街道の先人だちでした。

彼らは、明治から昭和にかけ、地域発展のために果敢に取り組まれました。

自らのお金と手によって、丹後ちりめん輸送のために鉄道を敷き、生糸相場に参入するために街道内に電信所をつくり、電力の安定供給の為に発電所まで作ったのです。

 

多様化し移り変わりの早い時代に、日本の復興を託された地域の活性化。

「今、僕たちは何をすべきか?」そう考えるとき、いつの時代も変わらない言葉がきっと私たちを導いてくれるはずです。

 

私たち与謝野町商工会青年部は、

「地域の一員としてその責任を自覚すると共に、先人の教えに学びつつ」、「創造力と行動力を活かし、地域振興発展の先駆者」として、ちりめん街道を繁栄させてきた先人たちの気概を胸に、地域と一体となって5万人目指して、そして青年らしく頑張ってまいります。

 

皆様のご来店、お待ちしております。

ちりめん茶屋詳細はこちら

 

 

 

 

 

 

2012年06月07日

昭和初期の16mmフィルムに涙こぼれる

私はちりめん街道のある町、与謝野町の住民です。

住民でありながらちりめん街道の歴史をそれほど知らなかったちょうど1年ほど前、旧尾藤家住宅の中にある映写室で1つの映像を目にしました。

私はその映像を見た瞬間に、予期せず涙があふれてきました。

私たちの町が「丹後ちりめん」の名で有名な絹織物の産地であることは、地元の人間にとっては当然のことです。今では少なくなってしまったちりめん織機のガチャガチャという機音(はたおと)も、地元の人間にとっては心に根付いた故郷の音です。ちょうど、海の近くに住む方が波音を聞いて育ったような、そんな存在です。

私も小さい頃はその音を聞きながら学校の登下校を繰り返したものですが、その時代よりももっともっと前、戦前・昭和初期にはちりめん産業で遥かににぎわっていたと聞いています。

ですが、そのずっと後の時代を生きている私にとっては、昭和初期のことは話しに聞いていても、実感があったわけではありません。聞く所によると、たいそう賑わっていたのだろうなあ、と想像する程度だったわけです。

ところが、旧尾藤家住宅の映像を見た瞬間に、それが大きな実感に変わりました。

映像は昭和初期に、当時はかなり貴重だった16mmフィルムの映像です。街道筋は商店が立ち並び、多くの人で賑わっていました。

動く映像として、目に飛び込んできたことで「当時の賑わいの話は本当だったんだ…」という実感に変わりました。もちろん、聞かされた歴史を疑っていた訳ではありません。ただ、自分の体験ではなかったので、直接的な実感がなかったのです。

それからちりめん街道について少しずつ知って行く中で、私は一人の住民として、当時の人たちの心意気を誇りに思えるようになりました。