2012年09月20日

ちりめん茶屋店内展示のお知らせ

只今ちりめん茶屋店内では、日本習字の井上教室さんの生徒作品を展示しています。

 

ちりめん街道内にある井上教室さんでは、小学生の低学年から高校生まで加悦地域を中心に多くの生徒さんをご指導されておられます。

 

お習字は、小さな時から始められ、また大人になっても長く続けられる習い事。

今のご時勢、手書きで文字を書く機会が少なくなってきましたが、やはり文字は綺麗に書けた方が良いですよね。

私も習字やっとけば良かった(笑)

 

展示期間は9月22日(土)~10月21日(土)まで

店内への入店は無料となっています。

作品展示のある生徒さんの関係者の皆さんはもちろん、そうでない方もぜひ一度ご覧になって下さい。

2012年09月13日

秋季展

旧尾藤家住宅では、女性ものの羽織やコート、道行着を小物類と合わせ数多く展示しています。着物とともに道中着にもこだわりの細やかなおしゃれが見てとれます。今回初公開です。ぜひ、ご覧になってみてください。

12月初旬まで (途中展示の一部が変わることがあります)

旧尾藤家住宅管理人

2012年09月11日

2012ちりめん街道まるごとミュージアムのごあんない

昭和モダンとシルクの里 与謝野町にいらっしゃいませんか?

かつてちりめん産業が栄えた昭和初期、丹後ちりめんの里 与謝野町加悦(かや)の「ちりめん街道」は、機音が響き、ランプ屋、人力車屋、料理旅館、帽子屋など、たくさんの店が軒をつらね、京都と行き来をする人々で賑わっていました。

そんな昭和初期の賑わいを再現するイベント、

「2012ちりめん街道まるごとミュージアム ~美心(うつくしごころ)与謝野 昭和モダンとシルクの里への誘い~」が、10月13日(土曜日)与謝野町加悦 「ちりめん街道」一帯で開催されます。

当日は和装小物や地元特産品を販売する「ちりめん街道市」や「お茶席」、そして、「昭和モダンから未来に向かって」とのスローガンで、「丹後ちりめん着物ショー」なども行われます。

「2012ちりめん街道まるごとミュージアム」は10月13日(土曜日)10:00~15:30開催。

~あなたも、きもの姿でちりめん街道を散策してみませんか?~

2012年09月06日

ちりめん物語~丹後でうまれた奇跡~vol.8

第8話 倭文(しどり)神社

倭文神社と呼ばれる神社は日本全国にあり、建葉槌命(たけはつちのみこと)、または天羽槌雄神(あまのはつちおのかみ)とも呼ばれる織物の神様を祀る神社で、与謝野町三河内地区にも存在します。三河内の曳山祭りは、丹後ちりめんが誕生した300年の歴史に関係があり、丹後ちりめんと共に発展してきました。それはそれはきらびやかで美しくいお祭りです。

倭文(しどり)神社の北東側に三つ葉グランドがあります。その中に「ちりめん創業記念碑」と書かれた大きな石碑がそびえ立っています。裏面には石碑設立の理由書きがあり、

 

「今、皆が丹後ちりめんの恩恵を受けることができるのは、江戸時代中頃、木綿屋六右衛門の力添えで、手米屋小右衛門と山本屋佐兵衛が苦労をして西陣でその技術を習得。享保7年(1722)に帰郷し、その技術を惜しみなく多くの者に伝授したからである。それに感謝の意を示す」

 

と書かれています。

この石碑は大正15年に建てられましたが、翌年の丹後震災で壊れて、2年後の昭和4年に新しく建てられたものです。大正時代の石碑は、地震の時にいくつかに割れてしまったらしく、その断片が今でも算所と三河内の両地区に残っています。こうして昔の人たちのおかげで、今の豊かな暮らしがあるのですよ。

 

 

謎の男「丹後地方は、この地域の気候・風土を活かし、幾つもの試練を乗り越え、まちのためにと行動した人たちがいたからこそ、今があるんじゃ。そして、まだまだたくさんの素晴らしいものがこの地域にはあるから、みんなで探したり、調べたりして、いっぱい自慢できるものを見つけてみてね。」

 

 

「おしまい。」

2012年09月05日

ちりめん物語~丹後でうまれた奇跡~vol.7

第7話 ちりめん街道

与謝野町加悦地区の旧街道沿いの町並みは、「ちりめん街道」と呼ばれ、平成17年12月に「機音響く丹後ちりめんのまち」として、日本中に98カ所ある「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。江戸から明治・大正・昭和初期にかけて丹後ちりめんがにぎわいを見せた場所です。ちりめんの流通を支えたのは、重さ60キロにもなるちりめんを、丹後から京都に山を越えて運び続けた「ちりめん飛脚」です。足に自信のある男たちが、毎日大江山を越えて京都にちりめんを運んでいました。

京都への道のりは、行きは5日、帰りは4日と決められていました。ちりめん飛脚は健康でまじめなひとで、信用がありました。京都からの帰り道は、ちりめんが売れた大金を持って帰るので必ず2人以上で帰りました。

 

飛脚B「おい、うまそうな店があるぞ。ちょっと寄っていかねえか。」

飛脚A「ダメだ。こんな大金を持って道草くうのはあぶねえ。さっさと帰るぞ。」

飛脚B「へい・・・。」

 

これは、いろんな誘惑に負けないように、また山賊にあっても襲われないようにという決まりだったのです。明治から大正には、街道にランプ屋・化粧品屋・牛肉屋・呉服屋・料理旅館・人力車屋・駄菓子屋・床屋・うどん製造店・帽子屋などが軒を連ねていきました。そのにぎわい振りに、但馬方面から遠足に来た子どもたちが「ここは日本か!」と驚いたそうです。この街道にある機屋さんやお店は、家の中にあるため、普段の生活と仕事が密着していました。現在もある下村家住宅の「ハタヤマド」は、秘密とされていた技術を見られないように外から見えにくく、でも明りがしっかりとれる工夫になっている窓です。このハタヤマドを持つ建物は、残念なことに丹後大震災で多くがつぶれてしまい、丹後で唯一、下村家住宅のみとなりました。

ちりめん街道の「10m道路」はゆったりとした道幅が特徴ですが、これは観光用に整備されたのではなく、当時のままが残されています。この道路整備にお金を出したのは、ちりめん産業でお金持ちになったひとたちでした。お金をまちのために使い、住民の生活や仕事をする場所を自分たちの手で整えたのです。さらには、「住民が鉄道を敷く」、それを実現させたひとたちがいました。値段の移り変わりが激しいちりめんは、早く丹後から京都へ運ぶ必要がありました。そんな中、鉄道を敷くことが決定され、住民は大変よろこびました。

 

しかし、不幸な出来事が起こりました。

 

大正12年9月1日 「関東大震災」です。被害は東京方面だけではなかったのです。保管されていた書類が無くなり、鉄道を断念せざるをえませんでした。しかし、住民たちは諦めませんでした。

 

住民A「くそー。鉄道が敷ければ商品をもっと早く運べるのによー。」

住民B「まだ諦めるな。経験のある人を探してもう一度設計しよう。」

住民A「そうだな。よし!もう一度がんばろう!」

 

経験のある技師に、設計や測量、距離などを出してもらい、建設に30万円あればできるとわかりました。当時のお金の30万円は、現在のお金で約1億8200万円です。その後、823名のひとたちがお金を出しあい、加悦鉄道株式会社を建て、地域社会の発展に一生懸命つくしました。ガス発電所、自動車、加悦鉄道、加悦町役場、これらもみんなが力を合わせて作りました。念願だった鉄道営業を開始して3ヵ月。またしても、不幸な出来事が起こりました。

 

丹後地区を大地震が襲ったのです。昭和2年3月7日午後6時28分、丹後大震災の発生です。夕食の時間だったこともあり火を使っている家が多く、またたく間に火災が発生し、大変大きな被害になりました。

 

避難住民たち「早く逃げろ~。子どもとお年寄りを守れ~。うちの子どもを知りませんか~。」

 

被害総額は、今のお金で約1億9000万円。念願だった鉄道開始も、大きな被害を受けました。

 

 

しかし、一人の人物が立ちあがりました。

 

 

加悦鉄道取締役に就任した11代尾藤庄蔵です。尾藤氏とは、どんな人物だったのでしょうか。江戸時代後期には、ちりめん問屋として活躍し、明治初期には北国と大阪を結ぶ北前船を所有しました。加悦鉄道株式会社では社長を務め、昭和3年からは2期加悦町長も務めました。丹後大震災が起こり、尾藤町長はその復興事業として役場の新築、道路建設といった、現在のまちの基礎をつくりました。懸命の復旧作業で、なんと1週間で再開し、ちりめん製品を運ぶためにつくられた鉄道は、この時救援物資の輸送に大活躍したのです。住民が一丸となってまちをつくり、奇跡ともいえることを実現したのは、ひとの絆、ひとの想いが強くあったからこそできたことなのです。

今は鉄道がなくなり、その線路は自転車道になっています。昔の線路の上を、みんなも歩いたり自転車で走ったりしてるんですよ。

 

 

謎の男「みんながいつも使っている自転車道は、実は線路だったんじゃな~。今日来ているお父さんお母さんたちは、加悦鉄道が走っていたころを知っているかもしれんの~。次は、織物の神様がこの地域にいるという噂を聞いたんじゃ。はてはて、どこだったかの~。」

 

最終回第8話に続く・・・・・

2012年09月04日

ちりめん物語~丹後でうまれた奇跡~vol.6

第6話 丹後で初めての織物工場

与謝郡野田川町岩屋村に丹後で初めてつくられた絹織物会社。ノコギリ型の三角屋根の工場がつらなっています。絹の糸は光をあてると光って見えます。この屋根は、直射日光をさえぎって、自然の光を取り入れる工夫がされています。それによって、手の影がでず、3,700本の糸がしっかり見えるようになっているのです。天井が高くなっているので、織機をたくさん動かしたときの音を分散させ、うるさくないようにしています。

昭和34年には昭和天皇がこの工場に来られ、当時ご婚約をされていた、皇太子様と美智子様の結納の白生地を2反注文されました。その白生地でつくられた着物が、結婚披露宴で日本中に紹介され、

 

おばちゃん「美智子様と同じ着物がほしい」

 

と、この工場に注文が殺到しました。

昭和40年代、高校卒業の役場の初任給が15,000円の頃に、白生地1反10,000円しました。それでも年間1,000万反の注文があり、織っても織っても追いつかない状況が続きました。

 

お客さんたち「1反ちょうだい。うちは2反くれ。私もちょうだい。」

問屋主人  「ありがとうございます。はい、1万円ね。こちらも1万円ね。」

 

ガチャっと織れば万儲かる。これが丹後の「ガチャマン」と呼ばれた一番儲かった時期です。それは昭和48年まで続き、丹後は日本一のシルクの生産地になったのです。この工場は、業界でも有名でしたが、平成元年に工場を閉めました。しかし、この地域の産業を支えた工場だったので、地元のひとたちから、「ちりめんのルーツともいえる丹後の顔だった工場を残してほしい」との声がありました。そこで、昭和初期の雰囲気をそのままに、ちりめん工場を再開したのです。

 

謎の男「なるほどの~。むか~しむかしからあるものを守っていくのは大変なんじゃな~。むかしと言えば、まち並みが歴史をたくさん持っているところがあるんじゃ。ちょっと遊びに行ってくるかの~。」

 

第7話に続く・・・・・

2012年09月03日

ちりめん物語~丹後でうまれた奇跡~vol.5

第5話 丹後織物工業組合

織りあがったちりめんは、いくつかの作業をへて製品になります。丹後で織ったちりめんの生地は、丹後織物工業組合に集められます。織りあがったちりめんはゴワゴワしていて、色も真っ白ではありません。セリシンというニカワ質のものや、のり、油などが付いているので、それらを取り除かなくてはなりません。そのために、石鹸液の熱湯の中で約4時間煮込んで取り除きます。この作業を「精練」といいます。その後、乾燥させ、幅を整え、厳しい検査員によって1反1反キズや汚れが無いか検査し、製品として認められた反物に「合格印」が押され出荷されます。

昭和10年には一年の生産量が533万反、織機も14,558台になりました。丹後織物工業組合加工場では、次々に新しい機械が入り、昭和48年には生産量が996万反になり、西陣織りの帯の生産も増えて、丹後はちりめんと帯の日本一の生産地になったのです。

謎の男「ちりめんというのは、ただ織るだけじゃなく、いくつもの作業を経て製品になるんじゃな~。この近くにも古~い織物工場があるらしいから、次のお話を聞いてみよう。」

 

第6話に続く・・・・・

2012年09月01日

ちりめん物語~丹後でうまれた奇跡~vol.4

第4話 発展

300年前、苦労して持ち帰った技法が伝わり、丹後ちりめんが定着していったころ、京都西陣で大火災が起こりました。この火災で7,000台余りの織機が灰となってしまったのです。たちまち絹織物は品不足となり、丹後に注文が殺到し、丹後はちりめんの産地となったのです。明治時代に入ると、「国のためになる産業をおこせ」という国からの命令が発令されました。それに対応し、今の綾部市に「郡是(グンゼ)製絲株式会社」がつくられました。

郡是社員「今日から蚕のえさになる桑の葉を作って、絹糸をたくさん作って下さい。」

農家  「へい、わかりました。」

郡是製絲株式会社は、農家さんに蚕さんのエサとなる桑の葉をつくるよう指示を出して生糸の生産を増やし、海外へ輸出をして、「日本の絹糸はとても良い糸だ」と高い評価をもらい、業績を拡大していきました。国内でも一年の生産量が40万反から150万反に、織機も1,400台から4,000台を超え、3倍の生産量に発展しました。さらに、与謝郡野田川町岩屋村に、丹後で初めての絹織物会社がつくられました。外国のお金を得るために、ヨーロッパの女性向けのブラウスやスカーフなどのシルクの生地を織りあげて国の為に力を注ぎました。大正から昭和には、ちりめんの生産がものすごく増えました。いわゆる、「丹後ちりめんの黄金時代」を築いたのです。

 

第5話に続く・・・・・